SSブログ
RSS [RSS1.0] [RSS2.0]
共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

風が吹けば桶屋が儲かる

『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義014』を読んで
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000143169
(上記URLのページは3月2日頃に「第015号」に変わると思います)
次の部分(音声ブラウザで閲覧されることを想定して改行位置を変更しました)

■「風が吹けば桶屋が儲かる。」

も同じです。この文章だけでは、
なぜ風が吹くと桶屋が儲かるのか「?」です。

ご存じでしょうが、この論理は次のようになっています。

風が吹くと砂埃が舞うので、盲人が増える。
    ↓
盲人は三味線を弾くので、その分それに張る猫の皮が必要となる。
    ↓
猫が減るので、ネズミが増える。
    ↓
ネズミが桶をかじるので、桶屋が儲かる。


■こうやって論理の鎖をつないで初めて一応の説得力を持ち、議論のスタートラインに立つことができます。

反対者は、ここでつないだ論理の鎖を分断すべく、議論を展開することになります。第一文だけやってみましょう。

 議論のサンプルとして寝屋川の事件での加害少年の発言を取り上げるのもどうかと思うが、上記引用部分も少し雑である。(今回の私の記事には「差別用語」に相当するものが含まれていると思いますが、引用文(または原文)を変えるわけにはいかないので御容赦下さい。m(_ _)m)

 インターネットで「風が吹けば桶屋が儲かる」を調べてみたところ、出典は『江戸時代の浮世草子「世間学者気質(かたぎ)」』のようである。

  【Google 検索: 風が吹けば桶屋が儲かる 世間学者気質】

 その中に、元々の文章(原文らしきもの)を載せているサイトがあった。

  【相原コージ先生に捧ぐ(慣用句辞典 かさ〜かせ)】

 『辞典内の文言は、商用以外であれば、断ることなく転載して構いません。』とのことなので遠慮なく引用させていただく。

・風が吹けば桶屋が儲かる(かぜがふけばおけやがもうかる) 思わぬ結果が生じることの喩え。あるいは、当てにならぬ期待をすること。 補足:「今日の大風で土ほこりが立ちて人の目の中へ入れば、世間にめくらが大ぶん出来る。そこで三味線がよふうれる。そうすると猫の皮がたんといるによって世界中の猫が大分へる。そふなれば鼠があばれ出すによって、おのづから箱の類をかぢりおる。爰で箱屋をしたらば大分よかりそふなものじゃと思案は仕だしても、是も元手がなふては埒(らち)明ず」(浮・世間学者気質−三)と見え、「箱屋」が後に「桶屋」に転じたと思われる。いきなり「三味線弾きが増える」となっているのは、江戸時代の通俗的な概念として、目の見えない人は三味線弾きだと相場が決まっていたから。 出典:世間学者気質(せけんがくしゃかたぎ) 浮世草紙。無跡散人。明和4年(1767)。・・・調査中。

 『風が吹くと砂埃が舞うので、盲人が増える。』は『今日の大風で土ほこりが立ちて人の目の中へ入れば、世間にめくらが大ぶん出来る』の部分である。訳すと、次のようになる。

 今日のような強い風が吹くと砂埃が舞い上がり、
 その砂埃が人の目の中に入って、目を患う人がとても増える

 「儲かる」に対して反論するのは簡単だが、この第一文に対して反論するのは少し難しい。「今日のような」がどんな感じか分からないが「強い風」が吹けば「砂埃が舞い上がる」は「真」である。「偽」なら「強い風が吹いても砂埃が舞い上がることはない」となり、舞い上がる場所が一カ所でもある限り「偽」ではない。「その砂埃が人の目の中に入って、目を患う人が増える」も同様である。たった一人でも、強い風で舞い上がった砂埃が目に入って目を患う人がいれば、「偽である」と反論することはできない。ただ「とても増える」であれば、「とても」の意味を詳細に聞くことで事実と異なれば反論できる。原文は『大ぶん出来る』とあるので「大ぶんではないでしょう」と反論できるかもしれない。当時の医療レベルによるが…。
 そのことを踏まえて、メルマガで例示されている反論(質問?)に対して応えてみたい。ただし、メルマガでは上記引用部分に対する反論であるが、私は原文の場面を想像しながら反論に反論する。だからメルマガの反論に対する反論と考えると少し変になるが御容赦願いたい。

「今時風が吹いて砂埃が舞うような場所の方が少ない。不当に一般化しすぎている。」

 「一般化しているつもりはありません。風が吹くと砂埃が舞う所があるはずです。ほら、そこも砂埃が舞ってるじゃないですか」

「風の吹き具合を聞き手のイメージに任せているが、風の吹く強さも強弱がある。数値化し、どの程度以上の風が吹く場合であるのか、明確にすべきである。」

 「『今日のような』と言ってるじゃないですか。ほら、強い風でしょ」

「仮に砂埃が舞うとしても、雨の日や雨の日の後は舞わないはずである。天候を限定すべきである。」

 「雨の日の話なんかしてませんよ。今日は雨が降ってないでしょ」

「砂埃が舞うことと、盲人が増えることとの間の因果関係は、立証されていない。立証せよ。」

 「目に砂埃が入ったら、目を患うでしょ。砂埃が目に入っても痛くないんですか? すぐに治れば気にすることはないが、すぐに治るんですかね」

「増えるというのは、砂埃が原因で1人でも盲人になれば、増えるというのか、それでは表現が不適切である。異なる意味ならば、どの程度増えることを主張したいのか明らかにすべきである。」

 「増えることは増えますでしょ。仰る通り、一人でも目を患えば増えたことになりますでしょ。どの程度増えるかは『とても増える』と言いましたでしょ。『とても』はちょっと言い過ぎかもしれませんがね。ワッハッハッ」

 以上である。

 『一般化』とか『どの程度以上の風か』とか『天候を限定すべき』とかは意味のない反論のように思われる。裁判の際には個別の事例なので、それらの事実を調べる必要があると思うが…。

 もしも反論するのであれば、相手の主張の意味を詳細に聞いてから反論した方が良い。すなわち、「論破」の前に「質問」が必要である。相手が質問に答えているうちに矛盾や問題点が見つかることになる。メルマガの記事でも『疑問をぶつけられる』という表現を使っているので「質問」のつもりだろうが、『不当に一般化しすぎている』のように答えを聞く前に反論してはダメだろう。そう言う私もこの記事ではメルマガの著者の意見を詳細に聞かずに反論を書いているが…。
(^_^;)


タグ:論理
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
カテゴリー:メルマガを読んで
共通テーマ:学問

読者の反応

nice! 0

sonet-asin-area

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました