悪魔の証明:証明責任は?
『悪魔の証明 - Wikipedia』を読んで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E
次の部分
「あることの証明」は、証拠を一例でも提示すれば一瞬で完了する容易なことだが、その反面、「ないことの証明」は調査範囲が限定されたケースを除き立証は事実上不可能である。なぜならば、この世の全ての存在・可能性・森羅万象などを完全に調査しなければならないからである。
そのため、公平の見地から証明責任は「ある」と主張する側が負うことになっており、存在を証明できなければ無いものと見なされその主張は排斥される。
もしそうでなければ、いかなる荒唐無稽な主張でも好き勝手に言いつのる事ができるのに対し、否定する側が「そうではないこと」を証明しなければならないという不公平な重荷を背負うからである。しかし、現実の論争の場では、必ずしもこのことが了解されているわけではない。
「大量破壊兵器が見つからないからといって『ない』とは言えない」というような小泉首相の発言がニュースになったことがあったが、遠い昔のことのようになってしまった。結局は『ある』ことが証明できず『ない』ということになったのではなかったかと思う。
「見つからないからと言って『ない』とは言えない」は正しい。では『ある』のか『ない』のか。『ある』と主張した人と『ない』と主張した人と、どちらが正しいのか。上記引用文にあるように『ない』を証明するのは不可能である。条件付きなら可能な場合があるが、『不可能』と考えた方が妥当な場合が多いだろう。
私が重要だと思ったのは2段落目の『証明責任』の話である。見つからないからといって『ない』とは言えないが、『ある』とも言えない。しかし『ある』を証明できなければ『ない』と見なされる。これはとても重要である。だからアメリカは『ある』を証明しようとして必死だったわけで、結局証明できないまま戦争を始めてしまったわけで…。
この『証明責任』のことを無視して議論の最中に『悪魔の証明』を持ち出す人はいないだろうか。例えば「人を殺しても良い理由なんてない!」と主張する人がいると『悪魔の証明』を持ち出して「『ない』ことは証明できねーよ。証明してみろよ。バーカ」みたいに…。そんな汚い言葉を使わなくても心の中で思っている人がいるような気がする。『証明責任』を考えたら『ある』と主張している側が証明しなくてはいけなくて、証明できなければ『ない』と見なされるのである。例えば「人を殺しても良い理由なんてない!」に反対している人は「人を殺しても良い理由がある」を証明しなくてはいけない。証明できなければ「人を殺しても良い理由はない」と見なされることになる。どのような状態になれば「証明された」と判断するのかをまず決めておかなければならないだろうが…。
そんな訳で、『ない』と主張している人に『悪魔の証明』を持ち出して反論するのはやめた方がいいだろう。そんな反論をするのではなく『ある』を証明しようとした方が建設的な議論になるだろう。
これは難しいですよね。
できれば、国と国。信頼でなりたつと良んだけどなぁ~~って、争いの話を見聞きするたび・・・思います。
by femto (2005-04-13 12:20)
makoさん、コメントありがとうございます。
主旨が分かりにくい記事ですみません。(^_^;)
記事のことは置いておいて……、
私も国と国が信頼しあえれば良いんだけどなぁ、と思います。
そのためにはまず日本が他国に信頼されるように行動することが大切だと思ってます。
by 正己 (2005-04-13 13:46)