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共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

風は見えるか?

『Amehare MEMO:風を撮りたい』を読んで
http://blogs.dion.ne.jp/ameharelog/archives/1003653.html
次の部分

季節毎に風が違うように。僕は晩春の風を撮りたいと思う。風の重さを撮れるのだろうか。風の匂いを撮れるのだろうか。風の息吹を撮れるのだろうか。海に出れば風の様子は波の状況でわかる。海面の色で季節も解るだろう。でもそれだけでは風を撮ったことにはならない。それは海面を撮ることでしかない。しかし、それさえも都会に住む僕にとっては難しい。
(『Amehare MEMO:風を撮りたい』)

 風を撮ることはできない。
 風を見ることはできない。
 でも、
 風を感じることはできる。
 風を感じている生き物を撮ることはできる。

 結論から言ってしまえばそういうことである。
 これだけではトラックバックとしては短いだろうから、もう少し書いてみる。

 以前、養老孟司さんの次のような話を聞いた、というか読んだことがある。

また、解剖学実習で、『肛門だけ』切り取って重さを測れ、と言われた学生は、よく考えると、往生するであろう。よく考えない学生なら、周囲の皮膚を切り取ってくるであろうが、それはもちろん、ダメである。肛門に重量はない。なぜなら、肛門に「実体」はないからである。これはいわば、消化管の「出口」である。
(養老孟司著、青土社、「唯脳論」33ページ)

 この話を聞いた時、目から鱗が落ちた気がした。養老孟司さんは「モノ」と「働き」を区別して考えることを勧めているようである。養老孟司さんのこの話を引用するために本棚にある彼の本を見ていたら次のような記述も見つけた。

目にも見えない、触れることもできないものを「モノ」とは言わない。例えば「音」に触ってみろと言ったって、それは無理です。しかし我々は、音というものの実在を平気で信じている。これはどういうことでしょうか。
(養老孟司著、マドラ出版、「生と死の解剖学」34ページ)

 最近、また、「脳死は人の死か?」が話題なっているが、この本を参考図書として読んでみると良いかもしれない。ちなみに、私は彼の全ての意見に賛成しているわけではない。

 話を戻す。

 「風」は「モノ」ではない。だから見ることができない。見ることができないものは撮ることができない。だから撮ることができないのである。実はこの論理にも突っ込み所がいくつかあって、その一つは「見ることができないから物ではないのか、物ではないから見ることができないのか」という「物」の定義の問題である。私は「質量」の有無で「物」と「物以外」を区別したいのだが、それでも突っ込み所が残るのでこの問題にはこれ以上触れない。ん?「問題」は「物」でないはずだが「触れ」られるのか?(^_^;)
 もう一つの突っ込み所は、「見えないものも写る」ということである。幽霊の話ではない。「写真」は簡単に言ってしまえばカメラに入ってきた光にフィルムが反応した結果である。「感光」という言葉もある。だから、目に見えない物にフィルムが反応すれば目に見えないものも写ることになる。広辞苑を見たら「写真」の所に次のような記述もあった。

物体の像、または電磁波・粒子線のパターンを、物理・化学的手段により、フィルム・紙などの上に目に見える形として記録すること(photography)。また、その記録されたもの(photograph)。
(岩波書店「広辞苑 第四版」)

 私が思い浮かべたのはこのことである。
 私たち人間の感覚器官では捕らえることができないものを、私たちは別の手段を使って間接的に捕らえようとする。科学実験で使われる測定器がその代表である。以前に私のブログで触れた「カエルが鳴くから雨が降る」もカエルが気圧の変化の測定器として機能しているようなものかもしれない。プロは気圧計を使っているのだろう。(追記:カエルは湿度の変化に反応しているらしい。気圧計というよりは湿度計らしい。)

 どんどん話が逸れていく気がする。(^_^;)

 冒頭で引用したブログ記事に戻る。
 
 『晩春の風』『風の重さ』『風の匂い』『風の息吹』そのものを撮ることはできない。しかし、引用したブログ記事に載っている写真のように「風を感じている生物」を撮ることはできるのである。「生物」でなくても、「風」に影響された「物」を撮ることはできるのである。その「物」を通じて、その「物」を写した「写真」を通じて、私たちは『晩春の風』『風の重さ』『風の匂い』『風の息吹』を知ることができるのである。それを第三者に伝えることができるのがプロのカメラマンの能力だろう。

 私は20年くらい前から、観光地(景勝地)に行った時に風景写真を撮らなくなった。私が撮るよりもプロの写真を見た方が良いと思ったからである。私の写真は観光地を訪れた「証拠写真」としての価値しかなかった。そこで感じたことを写真で表現する能力がなかったのである。だから、単なる風景写真を撮らなくなった。しかし、「人」が写っている風景写真なら撮っていた。その風景を見ている人たち、写真の中の人たちが、そこで私が感じたことを表現しているような気がしたからである。彼らの楽しそうな様子や感動している様子などは、単なる風景写真よりも私の感動を伝えているような気がした。でも…、それでもやはり、自分が感じたことは伝え切れなかった。

 私のカメラは10年くらい前から本棚の中で埃をかぶっている。いつかデジカメを買うだろうから、そのカメラは今後も使われないだろう。勿体無い。デジカメも「写真で誰かに何かを伝えたい」と思うまでは買わないような気がする。昔はあんなに「人」を写していたのに…。感動を共有するような人付き合いが減ったせいだろう。


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カテゴリー:ブログを読んで
共通テーマ:日記・雑感

読者の反応

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Amehare

僕の拙い記事に構造主義的立場で反応してくれて誠にありがとうございます。僕としてはとても喜んでいます。
初め僕の記事の説明でもしようかなと思ったのですが、風が「もの」でなく見えないことは自明のことなので、そこから正己さんの意見の素材として使われているだけであると気が付き、危うく無粋をするところでした。
といっても、反論とかそういうのでなく、単に説明だけですけど(笑

僕の記事は単にサルトル的「嘔吐」を自分なりに歩み寄ろうとする試みにしか過ぎません。歩み寄り方としては、哲学と言うより文学的すぎますが・・・(笑
これからもよろしくお願い致します。では
by Amehare (2005-04-30 19:37)

正己

Amehareさん、コメントをありがとうございます。
Amehareさんのブログは田口ランディさんのブログ経由で訪れてから毎回読ませていただいてます。私には解釈が難しいことが多いですが、興味深く読ませていただいてます。これからも頑張って下さい。
by 正己 (2005-04-30 23:25)

Amehare

正己さん、こんばんは
>解釈が難しいことが多いですが
文才がないだけなんです・・・、それに全然煮詰まってませんし。
正己さんも、良い記事ありがとうございます。
これからもよろしくです。
by Amehare (2005-05-01 00:59)

正己

Amehareさん、再度訪れてくれて、そしてコメントをいただき、ありがとうございました。
こちらこそ、よろしくお願いします。
by 正己 (2005-05-01 01:03)

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