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共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

「もう殴ってるじゃん」

『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義 2005.9.29-040号』を読んで
http://blog.mag2.com/m/log/0000143169
(上記URLのページはしばらくしたら「041号」に変わると思います)
次の部分(音声ブラウザで閲覧されることを想定して改行位置を変更しました)

金融ヤクザが、ある建設業者にトイチという高利で金を貸し付けたところ、建設業者は、金利を1回払っただけで、居直ってしまいました。

建設業者「うるせぇな。そっちだって、出るとこ出りゃ、困るんじゃねぇのか」

金融ヤクザは、ドスの利いた声で社長の顔をのぞき込み、

「利息も返済ねぇ(「つめねぇ」と読むそうです。)で、開き直んのかい。おめえさんが人の道を外すんなら、オレも人の道を外すしかなくなっちまうが、それでいいんだな。」

これで、建設業者は震え上がってしまったそうです。
(『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義 2005.9.19-039号』)

 これは「ヤクザの実戦心理術 金融地獄編」(向谷匡史著)の中にある話らしい。
 これを読んで、すぐに連想したのが次のような会話。

女「そんなことを言うと殴るわよ」(と言いながら殴る)
男「もう殴ってるじゃん」(涙目で抗議する)

 男女の会話でなくて親子の会話でも良いし、どんな人たちの会話でも良い。とにかく、口よりも先に手が出る人のことを連想した。漫画やテレビドラマなどで時々見かける。読者や視聴者を笑わせるためのシーンである。相手が何かをした後に殴るはずなのに、それを宣言した時点で殴ってしまっている。『殴る』でなくても良い。『殴る』以外の同じようなシーンを何度も見ているような気がする。上のヤクザの例では、『おめえさんが人の道を外すんなら、オレも人の道を外すしかなくなっちまう』って、ヤクザさん、もう人の道を外しているじゃないですか、という感じである。

 これは「AならばBをする」と宣言しているのに、宣言した時点でBをしてしまっている形である。「AならばBをする」という宣言は「宣言後にAが起こった場合にBをする」と解釈するのが普通だろう。しかし、宣言後のAよりも前にBを行ってしまった場合、Bが望ましいことであれば許せるが、望ましくない場合は困る。宣言後のAよりも前にBを行ってしまった場合、次のような言い訳(解釈)が考えられる。「AならばBする」という宣言を「宣言の前か後かは関係なくAという事実があればBをする」と解釈する。上の男女の会話の例では、女は「さっき言ったじゃない。だから殴ったのよ」と言い訳する。
 法律の世界でこのようなことが起こったら怖い。幸い、日本国憲法第39条に次のように書いてある。

何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。
(日本国憲法 第39条【遡及処罰の禁止・一事不再理】)

 例えば、今「喫煙した者は懲役1年」という法律が施行されたとしたら、法律施行後に喫煙した者なら罰することができるが、法律施行前に喫煙した者を「あの時におまえは煙草を吸っていただろう」と言って捕まえてきて罰することはできないはずである。「喫煙したことがある者は懲役1年」という法律だと罰することができそうである。たぶん法施行前の行為について罰することを定めた法律は憲法違反(憲法第39条違反?)だと思うが、よく分からない。また、今は喫煙しても無罪でも、とりあえず起訴猶予にしておいて「喫煙した者は懲役1年」という法律ができるのを待ち、法律が施行されてから起訴した場合はどうなるか。よく分からない。『刑事上の責任』は問われないとしても、刑罰以外の方法で制裁することは許されてしまいそうである。制裁目的でなくても、「依存症を治す」などと医療行為の名目で強制的に隔離することは許されてしまいそうである。心神喪失者等医療観察法がそのような運用になっているらしい。法施行前の行為を起訴猶予などにしておいて、法施行後に不起訴にして、あるいは起訴して無罪にして、不起訴になった人や無罪になった人に適用される心神喪失者等医療観察法を適用しているらしい。
 話が逸れてしまった。

 ところで、「AならばBをする」は「AでなければBをしない」とは論理的に異なる。「AでなくてもBをする」かもしれない。それゆえに、「AならばBをする」と宣言されたからといって、「Aでなければ大丈夫だろう」と安心してはいけない。上のヤクザの例では『おめえさんが人の道を外すんなら、オレも人の道を外すしかなくなっちまう』って、ヤクザさん、『おめえさん』が人の道を外さなくてもヤクザさんは人の道を外すかもしれないのでしょ、という感じである。これも漫画やテレビドラマなどで見かけるケースである。身の代金目的の誘拐事件が一つの例である。「身の代金を渡さなければ人質を殺す」と言われた場合、身の代金を渡しても人質が無事に帰ってくるとは限らない。「身の代金を渡せば人質を返す」と言われたら少しは期待できるかもしれないが、約束が破られているケースも多そうである。約束を守りそうにない人との約束は信用しない方が良いかもしれない。
 ついでに…。「AでなければBをしない」と言われた場合も「AならばBをする」と解釈してはいけない。「AでもBをしない」こともある。例えば、「部屋の掃除をしなければ遊び行っちゃダメ」と言われて部屋の掃除をしても遊びに行く許可をもらえるとは限らない。監禁事件ではそのようなケースが多そうである。それ以前に約束が信用できないが…。

 話がどんどん逸れて、まとまってないが、これで終わり。


タグ:論理
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sonet-asin-area

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swan

こんにちは。
>何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。>という遡及処罰の原則は、まさに「喫煙したことのあるひとを罰する」規定を認めない趣旨ですね。

事後法は後だしジャンケンで不公正極まりないばかりではなく、私人がどのように振舞えば逮捕されないかという予測可能性をそぎ、そのことによって国家の行為についての予測可能性に基づいた合理的な行動をとる私人の自由が侵害されることになります。

事後法が禁止されることは法の支配の要請をも満たすものです。「法の支配」という原則は、一般的抽象的な法を公示することによって私人に予測可能性を与える意義をもっているのですね。
by swan (2005-09-29 23:32)

正己

swanさん、コメントありがとうございます。m(_ _)m
やはり「喫煙したことがある者は懲役1年」というような法施行前の行為を罰することを定めた規定は違憲なのですね。当然だと思います。そのような規定が作られないことを祈ります。残念ながら「憲法違反の法律や規定が成立することはない」は必ずしも真ではないですから。
by 正己 (2005-09-30 00:42)

swan

>残念ながら「憲法違反の法律や規定が成立することはない」は必ずしも真ではないですから

そのとおりですね。
現体制の権力分立の原則でいえば、司法部が既存の法令や規則・処分などが憲法に適合するか否かを事後的にチェックするシステムをとっています。政治(国民意思)への謙譲を趣旨とするわけです。
(事前にできるようにするのがドイツなどにみられる”憲法裁判所”の考え方です。)そして、昨日の大阪高裁判決(靖国参拝違憲)や先週の公選法違憲判決をみるかぎり、司法は、必ずしもし違憲審査について極めて消極的な姿勢であるとはいえな(くなってきているよう)ですね。先日の死後受精認知についての東京地裁判決も、「一般人の通念」という文句を用いながら、堂々と道徳的(つまり同時に政治的な)価値判断を下しているようです。つまり、司法は必ずしもルールを適用するだけの機関ではないということです。
ただ、憲法9条に抵触する数々の立法が、高度の政治性ゆえに司法審査を忌避され続けている現状を考えれば、積極主義とまではいえません。政治状況と憲法規律の乖離が限界点に達したというコンセンサスが鈍磨しないうちに憲法改正するというのもひとつの道筋だと思います。

命題論理についてのエントリの関連で、思いついたのですが、憲法裁判ではしばしば「違憲とはいえない」という形の命題が提示されることがあります。
靖国参拝(Y)を例にとりますと、何月何日の首相の参拝(y)は違憲ではない、という判断の含意は、「yは違憲ではない」という個別具体的な事件に関するかぎりにおいて下される判断にすぎないのです。しかし、世間ではしばしば誤解して扱われるように思います。
つまり、「Yは合憲である」という全称的な命題にすりかえて読んでしまうわけです。
by swan (2005-10-01 14:46)

正己

swanさん、ありがとうございます。
ドイツなどの憲法裁判所は事前にチェックするのですか…。羨ましいです。ただ、司法判断が変わることを期待する場合があるので、事後チェックも必要だろうなぁ、と思っています。憲法裁判所に関しては、司法が積極的に違憲審査をすることを肯定していた町田顕元最高裁長官が反対していたような気がするので、何か欠点があるのだろうなぁ、とも思っています。
「yは違憲ではない」を「Yは合憲である」と解釈することに関しては、
「yは違憲ではない」→「yは合憲である」→「Yは合憲である」
(例:「2は奇数ではない」→「2は偶数である」→「整数は偶数である」)
と、Yという集合の要素であるyに関する判断を一般化してYに適用することについての問題だと思いますが、これは気をつけなければいけませんね。私も他の問題では同じことをやっているかもしれませんし…。(^_^;)
by 正己 (2005-10-01 17:39)

yadokari

はじめまして。

>心神喪失者等医療観察法がそのような運用になっているらしい。法施行前の行為を起訴猶予などにしておいて、法施行後に不起訴にして、あるいは起訴して無罪にして、不起訴になった人や無罪になった人に適用される心神喪失者等医療観察法を適用しているらしい。

その通りです。
心神喪失者等医療観察法は過去の行為に遡及するというのが、法務省の公権的解釈です。
条文の体裁もそうなっていますし、事実なされていることです。
法務省の解釈を採用すれば、心神喪失者等医療観察法施行前までの該当行為すべてについて本法を適用できることとなります。
つまり過去に該当行為を行った人すべてについて、適用ができることになるわけです。
極端に言えば、はるか昔のことを蒸し返してもいいわけです。
本法制定前の議論を見ても分かるとおり、もともと保安処分の議論の流れの中で制定された法律なので、そのようにも運用ができるようになっています。

日本国憲法には古い面もあるので、日本国憲法第39条の「刑事上の責任」を、刑罰に限る解釈を取る必然性が薄れてきていると感じています。
事後法で自由権を制約することを禁止する条文が無いですから・・・。
憲法に欠陥があると申し上げておきましょう。
by yadokari (2005-10-02 20:14)

正己

yadokariさん、コメントありがとうございます。
心神喪失者等医療観察法による処分が対象者にとって不利益処分であることはほとんどの人が認めてくれると思います。問題は刑罰以外の不利益処分がどのような場合に認められるか、どの程度まで認められるかですが、勉強不足でよく分かりません。ただ、心神喪失者等医療観察法に関しては医療目的であることが強調されているので、本人の同意なき医療がどのような場合に認められるかを中心に考えた方が良いように思います。同意なき医療に関してはエホバの証人に対する輸血手術の是非の最高裁判決と最近では分娩方法をめぐる最高裁判決があります。次のURLからリンクを張っています。
http://blog.so-net.ne.jp/self/archive/c158168
エホバの証人のケースの方が参考にしやすいように思います。
この判決を「患者の同意が必要である」と解釈するか「同意がなくても医師の説明が十分であれば良い」と解釈するか…。前者であれば、医療観察法による医療を拒否している人に対する医療は法的に許されないことになりそうです。私はその辺から医療観察法の問題点を指摘するのが良いように思います。
by 正己 (2005-10-02 21:15)

yadokari

>エホバの証人のケースの方が参考にしやすいように思います。

まず、「エホバの証人事件」は、東大医科学研究所が敗訴した事件です。
最高裁判決がリンクされておりますが、原審(東京高裁)の主文(結論)は損害の賠償額が70万円そこそこだったと記憶しています。
医療が契約に違反し、信教の自由が侵害されて、裁判所が損害の算定をしてもその程度の金額になる現実を知ってください。
このケースでは「契約自由の原則」どおり医療契約した事案ですので、心神喪失者等医療観察法のように“医療契約の自由が認められない法律”の場合は別異に考察する必要があろうかと思います。
訴訟法も「エホバ事件」は民事訴訟法ですが、心神喪失者等医療観察法の場合は行政事件訴訟法になろうかと思われます。
強制医療という話ですから、強制的に自由を制限するという話です。
以上、過去の判例の前提と、新法の前提が異なることを指摘させていただきました。
by yadokari (2005-10-02 21:56)

正己

yadokariさん、ご指摘ありがとうございました。
by 正己 (2005-10-02 23:14)

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