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共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

本当にクライエント固有の物語か?

『知的障害児・者の「主体」援助の陥穽を問う:ナラティブ・アプローチの批判的考察をもとに』(西村愛、現代文明学研究:第7号(2005):410-420)を読んで。
http://www.kinokopress.com/civil/0702.htm

 ネットで見つけて、面白そうなので読んでみた。最初は「ナラティブ・アプローチの勧め」かと思ったのだが、タイトルにあるように「ナラティブ・アプローチ」を批判的に考察している。読みながら、メモ書きのように感想を書いてみた。

 まずは、「ナラティブ・アプローチの勧め」だと思いながら読んでいた時に気になった部分について感想を書いた。

(2)援助者の役割

 まず、ナラティブ・アプローチにおける援助者とクライエントの関係を明らかにしておく。ナラティブ・アプローチでは、援助者とクライエントとの権力関係を突破するために、対等なポジションに立つことが不可欠な前提であるとしている。援助者は、クライエントの語る物語を専門知によって判断するのではなく、「もっとよく知りたい」「教えてもらう」という無知の姿勢を示すことによって、「未だ語られることのなかった物語」があらわれてくる。とはいうものの、クライエント自身が自己の思いや考えを常に認識できているわけではない。そこで、援助者は、「彼(筆者注:クライエント)自身にもよく見えていないはずの『もうひとつの物語』を発見し、創造すること」の援助を行うことになる。援助者は、クライエントと共に「オルタナティブ・ストーリー」の形成へと立ちあい、つくりあげていく。田垣は、「援助者に必要なのは、長期的な時間軸を設定し、クライエントのライフストーリーのなかに展開されるドミナント・ストーリーからオルタナティブ・ストーリーへの変化プロセスを見極めることである」と述べる。ワーカーの適切な見極めにより、クライエントは、自らの問題解決能力を認識していく。 つまり、クライエントが「ドミナント・ストーリー」から抜け出し、独自の「オルタナティブ・ストーリー」を形成するためには、まず援助者は専門知を捨て、クライエントの話に耳を傾ける。そして、クライエントに適切な場面で適切な助言することで、「オルタナティブ・ストーリー」獲得のために取り組んでいく。援助者がこのような姿勢を貫くことで援助者とクライエントは対等になるとするナラティブ・アプローチでは、あくまでもクライエントを「主体」であると捉えている。
(以下略)
(「現代文明学研究:第7号(2005)」412ページ)

 援助者の援助によってクライエントは一般的に規範とみなされている「ドミナント・ストーリー(優勢的な物語)」から抜け出せるかもしれない。そしてクライエントの持っている固有の「オルタナティブ・ストーリー(代替的な物語)」を獲得できるかもしれない。しかし、その「代替的な物語」に援助者の希望が含まれることはないだろうか。援助者の希望を排除することができるのだろうか。それが疑問である。

(3)ナラティブ・アプローチにおける「主体」言説がめざすもの

(前略)
ここで、まず変化が求められるのは、抑圧している社会のほうではなく、「主体」であるクライエントであることに注目すべきである。抑圧されているクライエントの気づきがあってこそ、抑圧者への行動がおこされるのであり、それまで抑圧する側は無自覚のままいられることを意味している。
(以下略)
(「現代文明学研究:第7号(2005)」412ページ)

 その通りかもしれないが、クライエントに変化を求めている時点で「ドミナント・ストーリー(優勢的な物語)」かもしれない。援助というのは意図的なものであるが、援助者の意図は含まれてはいけないのではないか。意図せずにクライエントが「オルタナティブ・ストーリー(代替的な物語)」を獲得することが望ましいし、『「オルタナティブ・ストーリー(代替的な物語)」を獲得することが望ましい』と思っていること自体に援助者の支配欲求、クライエントをコントロールしたいという思いが含まれているように感じる。

 これらの疑問が無視されたままナラティブ・アプローチが紹介されるのかと思ったら、読み進めているうちに、著者も既存のナラティブ・アプローチの問題点に気づいていることが分かった。

 しかし、このような現状を打破するために、知的障害のある彼/彼女らに対して、我々に分かるような言語方法で意思表示ができるように支援していくことは、援助者側の「他者に一方的に解釈されたり、決められたりすることが嫌ならば、明確な自己表現すべきである」という価値観に基づいているものであり、援助者の価値観で知的障害者を「駆り立て」ることになる。また、この自己表現においても、援助者に理解されうる表現方法、援助者がもっている価値観と同様の表現をした時のみ意思表示したと見なされ、その他の表現、言葉は聞き届けられない可能性もある。

(「現代文明学研究:第7号(2005)」413ページ)

 著者はこのことから『「『主体』になりうる被抑圧者」と「『主体』にはなれない被抑圧者」という被抑圧者内部における線引きになる危険性』を指摘しているが、私が感じている問題はもっと根本的な所にある。その根本的な問題にも著者は気づいているらしい。

最大の疑問は、クライエントが「オルタナティブ・ストーリー」を形成していく際に、クライエントにはまだ見えていないにもかかわらず、援助者がクライエントの変化のプロセスを見極めたうえで、クライエントが演じることができると援助者が見なした物語を創造していくことが援助者の仕事であるという点である。果たして、クライエント自身が気づいていないものを援助者が発見し教えることで、できあがったストーリーは「オルタナティブ・ストーリー」であると言えるのだろうか。

(「現代文明学研究:第7号(2005)」414ページ)

 私が感じていた根本的な問題は、まさに著者のこの『最大の疑問』である。
 さらに著者は次のように述べている。

つまり、言語、思考、専門家としての知識すべてにおいて、優位にある援助者がクライエントの変化を見極めて行った助言は、既に援助者自身の「クライエントはこうあるべき」という規範が介在している可能性が高い。

(「現代文明学研究:第7号(2005)」414ページ)

 その後に著者は事例をあげ、さらに次のように述べている。

 クライエント自身がつくりあげていくはずのストーリーに、他者がクライエントを見極めて、クライエントにそれを伝え、「オルタナティブ・ストーリー」に仕上げるよう要請していく。これを「ドミナント・ストーリー」以外に、どのようなストーリーと呼ぶことができるのであろうか。そもそも、「ドミナント・ストーリー」に染まっていない「オルタナティブ・ストーリー」を編みだすことは可能なのだろうか。

(「現代文明学研究:第7号(2005)」415ページ)

 もっともな疑問である。

 その後、著者は『フェルマンの反省的思考』を参考にして解決の糸口を探っている。そして、まずは次のような結論を得たようである。

抑圧しているにもかかわらず、対等な立場を標榜している人々、つまりワーカーこそ自らの思考や言語を反省的に振り返る必要がある。そこで、ワーカーはクライエントのためと言いつつも、自分の価値観に従うように強制していることを自覚することになる。

(「現代文明学研究:第7号(2005)」417ページ)

 そして、クライエントを『既存の思考法の枠組み内にいるか、外にいるか』で分け、次のように述べている。

自分たちが必死になって編み出したと思っている物語は、実は既存の枠組み内の思考にすぎない。そして、その枠組み内の思考を選び取ることは「枠組みの外にいる人と自分は異なっているのだ」という新たな排除を生みだしているという自覚をしていくことが、フェルマンのいう内省的読みであると考える。この反省的思考は、従来のソーシャルワークにおけるワーカーの権力性を批判しているナラティブ・アプローチの言説、思考法もまた批判している当のイデオロギーに固有の言葉づかいをしていることに気づくことができる。そのような気づきは、「既存の枠組みとは、どのようなものであり、我々は何を見落とし、見誤るように仕組まれているのか」「そのような枠組みから抜け出すためには、どうすればいいのか」という言語と「主体」が抱える問題の始点に立つことができる。

(「現代文明学研究:第7号(2005)」417ページ)

 残念ながら、というかやはり、「どのような援助方法が望ましいか」について著者は結論を出していない。ただ次のように述べている。

 本稿で論じてきた「まだ生成していない言葉にどのように応えるか」「既存の枠組みを超えていくためにはどうすればいいか」というような言語と「主体」の問題も根源的難問の1つであると思われる。そこには正解がない。そもそも、正解というものがどのようなものであるのか分からない。しかし、分からないが、その「分からなさ」は見過ごしてはならない重要性を含んでいる。知的障害児・者のソーシャルワークにおいても同じことが言える。知的障害児・者のソーシャルワークで重要なことは、この「分からなさ」を前にして援助者は援助の分からなさ、もどかしさを認識することであると思われる。しかし、その難題は援助者自身がどれだけ既存の概念にとらわれているのかという自己認識から、枠組みの外へと目を向ける新たな可能性を秘めている。それは、既存の枠組みの外にいる人たちの言葉にならない声を聞き取ろうという姿勢につながる。

(「現代文明学研究:第7号(2005)」418ページ)

 『正解がない』『正解というものがどのようなものであるのか分からない』と述べているが、その『根源的難問』に気付くことが『既存の枠組みの外』に目を向ける第一歩になると考えているようである。『おわりに』では『援助者自身が権力性を自覚し、立ちどまる、立ち尽くすことの有用性』と述べている。

 この問題は非常に難しい。援助とは自分の希望を相手に押し付けることではない。相手の希望に応えることである。しかし相手が何を希望しているか分からなければ、その希望に応えることは難しい。ほとんどの援助者は相手の希望を推察して応えているのだろう。その推察が当たっていれば良いが当たっていなければ適切な援助とは言えない。自分の希望を相手に押し付けているだけになる。援助者は自分の知識に基づいて自分の思考法でしか推察できない。ちゃんと考えれば適切な援助ができたのに間違っていた、というレベルではない。脳の限界である。また、既存の概念に捕らわれずに推察できたとしても正しいかどうか確認する術がなく、結果を見ても判断できないかもしれない。そのような状態で援助することになる。
 この問題は考えれば考えるほど分からなくなる。援助を求められれば援助すれば良いし、援助を求められていなければ援助しなくて良いのかもしれない。しかし、援助を求められているかいないかも分からない場合もあるし、求められた援助をすることが正しいと言い切れるかどうかも怪しい。そもそも「正しい」という概念自体が存在するのかどうかも怪しい。結局は、正しいと思ったことを間違っているかもしれないと思いながら実行するしかないのかもしれない。そして、結果を見ても「正しかった」とか「間違っていた」とか主張しない方が良いかもしれない。考えれば考えるほど分からなくなるのなら、むしろ考えずに、自分の言動も含めて自然の成り行きのままにするのが良いのかもしれない。しかし、私は自分の欲求を捨てられず、私が見て望ましくない状態にはなってほしくない。だから、やはり考えてほしいし、せめて自分の問題に気付いてほしい。


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サラン

お久しぶりです。この話は私も読ませていただきました。正解のない問い、と言う印象は私も同じです。

>だから、やはり考えてほしいし、せめて自分の問題に気付いてほしい。
同感です。
こういった話を、いろんな個々の場面において、一緒に話し合える人が身近にたくさんいると良いですよね。そう思いました。
by サラン (2006-01-28 06:15)

正己

サランさん、コメントありがとうございます。
そうですよね。原則のようなものは必要かもしれないけれど、やはり「個々の場面において」話し合えることが一番良いのかも知れません。
by 正己 (2006-01-28 08:51)

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