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共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

資格への執着と資格の必要性

『『さるコチ通信』 ☆★☆ 【第115号】』を読んで
http://blog.mag2.com/m/log/0000118894/106941714
次の部分(音声ブラウザで閲覧されることを想定して改行位置を変更しました)

星野「さぁ…。とりあえず、コーチがどういう方向に流れていくのか、関心はありますけれどね。私自身、既に「コーチ」という看板に全く執着がありませんから、ある意味、傍観者の気分ですよ」
K崎「そうだろうと思ったよ(笑)。そういう肩書きとか看板に拘らないところが星野さんらしいよね」

この後も、「コーチ」や「コーチング」についていろいろK崎さんと意見を交換したのですが、改めて「コーチ」について考えさせられました。

自分自身は「コーチングの技術を使っている」という立場ですから、「コーチ」という看板にそれ程の執着が無いのは事実です。

「コーチ」と「コーチングの技術を使う者」と、一体何が違うのか。何が同じなのか。

 私も看板ではないがある資格を持っていて、その世界の醜さのようなものを知って、またその資格を持っている人を嫌悪している人がいることを知って、その資格に執着が無くなりつつある。しかし、なかなか無くならない。理由は簡単。その資格を得るために使ったお金に執着しているのである。その資格を得るためには受験資格が必要で、その受験資格を得るためにお金が必要だった。資格を捨てるということは、そのお金を捨てるようなものである。それが嫌で執着を無くせないでいる。資格を得るまでにいろいろなことを学んだ。それで元を取ったと考えることもできるが、お金をかけなくても学べたような気がして…。
 お金をかけなければ絶対に学べなかった(?)資格として自動車運転免許証がある。この資格も使っていないのだから執着する必要はないのだが、免許を取得するまでにかかったお金のことを考えると…。それで更新し続けている。

 メルマガでは「コーチ」と「コーチングの技術を使う者」の違いを問いかけているが、私が持っている資格も、幸い、その資格がなくても同じような仕事ができる。医師免許など資格を持っていない人が同じことをするのを禁じている資格もあるが、「コーチ」も私が持っている資格も資格がなくても同じことができる。技術さえ持っていれば資格がなくても良いはずである。それにもかかわらず資格がある。資格の必要性はその資格のサイトに行けば書いてあると思うが、資格を持っている人を利用する側(客、クライアント、消費者、ユーザー等)の立場で考えると、その人の技術を信用して良いのか否かの一つの判断材料として資格が必要とされているように思われる。どんなに優れた技術を使いこなせても、資格がなければ信用されないのである。信用してもらうまでに時間がかかるのである。逆に未熟でも資格があればぼろが出るまでは信用される。それが一番の差であろう。そして、その延長線上に採用資格がある。たとえ優れた技術を使いこなせても、その資格がなければ面接さえさせてもらえないだろう。「コーチ」も私が持っている資格も雇ってもらう必要はなく独りで働くことができるのだが…。


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