SSブログ
RSS [RSS1.0] [RSS2.0]
共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

教育は強制ではなくて…

『教育基本法改正促進委員会による「新教育基本法案」のだめなところ』(+ C amp 4 +)を読んで
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060411/p1
次の部分

すなわち、公教育という国民に対する強制力は、近代立憲民主制に適合的な社会秩序の持続可能性を担保し、発展させる目的以外には正当化されえないのである。

 私は少し違う意見を持っている。立憲民主性についてはよく知らないし憲法をちゃんと理解しているわけではないが、素人の素朴な意見として「公教育という国民に対する強制力は、国民に求められた場合以外には正当化されえないのである」と思っている。もっと言えば「公教育という国民に対する強制力は、教育を受ける本人や保護者に求められた場合以外には正当化されえないのである」と思っている。

 swan_slabさんも終わりの方で『そのような道徳心や文化について子供に教育することが期待されているのは、国家ではなく親であり親を中心とした教師たちである』と述べられていて、これについてはほとんど同じ考えなのだが、『国の教科書的には「ホリエモンぎりぎりセーフ」的な自由の限界と社会の公正を教え、平和と人権について教え、社会制度の理論について教える』に関しても本人や親の求め無しに強制的に教えるものではないと思っている。

 昔は「ろくでもない人間が増えたら困るからまともな人間に育ててくれよ」と公教育に求めていたような気がする。しかし、テレビのニュースなどで「勉強したくてもできない」という子をたくさん見て教育に対する考え方が変わった。教育は求められて行うもので、強制するものではないと思うようになった。ただ、求めるものは人各々違ってその要求の全てに応じるわけにはいかないから、この程度なら公教育で教えられますよ、という調整を行って公教育の内容を決めるのだろう。それが正常な公教育のシステムだと思うことにした。

 社会秩序や国の発展に関しては、それは国家が求めるものではなくて国民が求めるものだろう。国民の求めに応じて国家が強制力を使っているんだ、と言われればその通りかもしれないが、教育しようがしまいが法律は存在しているわけで違法行為に関しては強制的な処分があるわけで、その処分を避けたければ法律を守るしかない。教育を受けようが受けまいが、国民は法律を守るしかない。法律を知らなくて損をしたくなければ勉強するしかない。強制されなくても自発的に勉強するしかない。そういうものではないかと思う。

 それから、他にも思ったことがあって、記事全体にまとまりがないがさらに続けると、本来どのような教育も親がするものではないかと思う。親がいない場合は保護者でも良い。しかし、親は生活費を稼ぐために忙しくて子を教育している時間がない。だから「先生、うちの子に勉強を教えてあげて下さいな」と教師に依頼する。教師に依頼する代わりに国に依頼して教師をつけてもらう。あるいは子を教育する時間があっても「私は馬鹿だからちゃんと教えられませんので、先生、うちの子に勉強を教えてあげて下さいな」と教師に依頼する。あるいは国に依頼する。そんな感じが正常な公教育のシステムのような気がする。

 まとまりがないが、以上がswan_slabさんの記事を読んで思ったことである。他にもあったかもしれないが、この記事を書いている最中に他の作業をしたら忘れてしまったので、これでお終いにする。

追記(2006/4/14):
 以下のコメント欄でswan_slabさんに紹介して頂いたエントリーに子どもの教育に対する最高裁の意見が載っている判例へのリンクがあった。

  【最高裁判例 S51.05.21 大法廷・判決 昭和43(あ)1614】

 役立つのは「四 本件学力調査と教育法制(実質上の適法性)」の「1 子どもの教育と教育権能の帰属の問題」「2 憲法と子どもに対する教育権能」「3 教基法一〇条の解釈」。それ以前はテクニカルなことなので読み飛ばしても良い。頭の体操になって面白いのだけど…。(^_^;) 「4 本件学力調査と教基法一〇条」以降は一般的な解釈の話ではなくて、この裁判固有の話なので読まなくても良い。ただ、一般的な解釈の応用問題として読むと一般的な解釈の理解が深まるかもしれない。


nice!(1)  コメント(6)  トラックバック(0) 
カテゴリー:ブログを読んで
共通テーマ:学校

読者の反応

nice! 1

sonet-asin-area

コメント 6

コメントの受付は締め切りました
swanslab

こんにちは。

>「公教育という国民に対する強制力は、教育を受ける本人や保護者に求められた場合以外には正当化されえないのである」と思っている。>

これは憲法26条の趣旨に反します。
26条は子供の学習権(教育を受ける権利)に対応して、保護する子供に対して普通教育を受けさせる義務を負います。すなわち、これは子供本人の意思や保護者の意思によって左右されることではないのです。
これは直接的には親を中心とした義務ですが、しかし、憲法の規定の主眼は適切な教育政策の実施を国に義務づけることにあります。

本来ならば、知識や思想などの情報の取得や流通は私人の活動にゆだねられるのが近代憲法の原則です。
しかし、教育というかたちの情報伝達については、多くの国で公教育制度が広く見られます。これはなぜかをかんがえてみますと、ひとつには、私人の活動に対する不信があり、そして能力差や環境の違いによって教育をうける権利の実現にばらつきが生じてしまうことがあげられます。
もうひとつは、強制的な教育が私たちのゲーム盤(民主政)を維持し発展させ、さらに適切な知識を身につけることによって経済発展や公衆衛生の維持に資するなど、将来の市民を育成することには公共的な利益があるからです。


国民の教育権と国家教育権については私も書いたことがあります。詳しくは
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050320/p1参照していただけると幸いです。
by swanslab (2006-04-11 22:58)

ruth

下層クラスがその社会的な雰囲気として教育・学習意欲を持たない、という事態はしばしば発生します。そして、そのような「貧困の文化」というのは、まさしく、その社会的位置(階級上昇の困難さからの教育への不信などや、「身の程」という上層クラスからの下層を下層のままにとどめようとするイデオロギー)に由来し、当事者たちに責任があるとはいえない場合があります。

このような下層クラスが教育意欲を構造的に社会的に持たないとき、教育を当事者の意欲のみに任せることは、はっきりと、不当な階層の固定化として機能すると思います。

一般にリバタリアン的自由主義は意欲の有無は当事者の責任に帰してしまうのですが、意欲の有無こそが、階層的に決定されてしまい、それゆえに、階層の固定化に結びつくことが多いのです。
by ruth (2006-04-12 01:57)

正己

swanslabさん、コメントありがとうございます。
憲法26条は子供のためにあるのではなくて、国家のためにあるんですか…。
私は違う解釈をしていたようです。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050320/p1は後で読ませて頂きます。
by 正己 (2006-04-12 07:20)

正己

ruthさん、コメントありがとうございます。
教育、学習意欲を持たないのは環境のせいだから、教育、学習意欲をもってもらうために強制的に環境を整えた方が良いということですね。そのような「親切」な考え方は私も好きなのですが、福祉の現場で「本人のため」というお節介が本人にとって迷惑になっていることを知り、また、その他のいろいろな問題でも「本人のため」というお節介の是非が問われているような気がして、やはり私は本人の意思を最優先に考えたいです。
by 正己 (2006-04-12 07:26)

swan

>憲法26条は子供のためにあるのではなくて、国家のためにあるんですか…。

いえそうではありません。
民主主義社会をかりに、さまざまなプレイヤーがゲームのルールにのとって自由に活動し幸福を追求するゲーム盤と考えてみてください。
社会的に不利な条件におかれたがためにゲームのルール(最低限では識字率)を知らなければ諸個人は平等に政治参加の権利を与えられたとはいえないはずです。

自由とは、近代初期においては、国家からの自由及び国家への自由を意味するものでした。
前者は、諸個人が国家からの自由を活用して幸福を追求する社会的・経済的条件は市民社会のなかで自律的に獲得すべきである、と想定されていました。
また後者の権利については、近代初期においては、政治参加の権利は教養と財産をもった一市民部の階級にしか認められていなかったのです。もちろん女性にも認められませんでした。教養と財産を有する市民階級の利益を国政に反映することが社会全体の利益につながると思惟されていたのです。

社会権という考え方は、資本主義の発達に伴い、労働者階級が形成され、彼らの悲惨な生活実態を自己責任としてなんら救済しないのはおかしいという社会主義的な運動のなかから生じてきます。

教育を受ける権利という考え方は、古典的な自由の考え方とは別の枠組みで考えなければならない問題なのです。
by swan (2006-04-12 12:34)

正己

swanさん、コメントありがとうございます。
私の考えは近代初期の古典的な自由の考え方のままなのかも…。(^_^;)
国家のためではなく子供のためであるのなら、子供の意思が尊重されないとなぁ、と思っています。と言っても、子供に権利を行使する能力がない場合には保護者が子供の代わりに子供のために権利を行使すればいいかなぁ、と思っています。
自己責任として何ら救済しないのは良くないと思いますが、救済方法の在り方は重要だと思います。セーフティネットや機会の提供や選択肢の紹介程度なら良いのですが、「救済されたければ、お前はこうしろ。命令に従え」と強制するのはいかがなものかと思うわけです。そんな極端な言葉で強制する人は稀だと思いますが、とにかく、国家が国民の要求無しに国民を管理しようとしちゃいけないと思うわけです。
by 正己 (2006-04-12 16:25)

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました