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共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

憲法と子どもに対する教育権能

『最高裁判例 S51.05.21 大法廷・判決 昭和43(あ)1614』を読んで
http://courtdomino2.courts.go.jp/schanrei.nsf/VM2/02D2CC35EDBC9F9F49256A850030AAE9?OPENDOCUMENT
(上のURLは削除され、次のURLに変わったようです。)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=26699&hanreiKbn=01
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=57016&hanreiKbn=02

 『教育は強制ではなくて…』のコメント欄で紹介してもらったサイトに「学力テスト」に関する最高裁判例へのリンクがあり、読んでみたら面白かった。特に子どもの教育は誰が支配し、決定すべきかという問題について述べられている部分が興味深かった。せっかくだから自分の言葉で訳してみたい。と思ったけれど、面倒になったので、重要だと思った部分を強調表示して、私の意見を添えるだけにする。

四 本件学力調査と教育法制(実質上の適法性)

 1 子どもの教育と教育権能の帰属の問題

 この部分は省略。これより上も省略。

 2 憲法と子どもに対する教育権能

 ここからが最高裁の見解。

 (一) 憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法二六条であるが、同条は、一項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、二項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めている。この規定は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。
 しかしながら、このように、子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続によつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。

 憲法26条が規定された理由みたいなものが述べられているような気がする。特に『換言すれば』以降が重要な気がする。次のようなことが述べられているように思う。

  • 子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではない。
  • 子どもの教育は、何よりもまず、子どもの学習する権利に対応すること。
  • 子どもの教育は、子どもの学習する権利を満たす立場にある者の責務である。

 その後に『しかしながら』と続くが、上のことが否定されたわけではなく、憲法26条では教育の内容や方法を誰が決定するかについては導き出せないということを述べているだけで、憲法26条に基づいて「〜が決定すべき」と主張するのは無理があるということを述べているに過ぎないのだと思う。

 (二) 次に、学問の自由を保障した憲法二三条により、学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるとする見解も、採用することができない。確かに、憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。しかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。もとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである。

 これにはあまり興味がないのだが、最高裁の意見はもっともだと思った。学問の自由に教授の自由が含まれることを利用して『自由の濫用等による弊害』が生じる可能性があり、それは防ぐ必要があるだろう。また、憲法23条が『社会的自律作用による抑制のみに期待している』と解釈するのも無理があると思った。
 私はこれを読んで初めて「学問の自由」に「教授の自由」が含まれることを知った。しかし、大学での教授は「学問」と呼んでも良さそうだが、義務教育における教育を「学問」と呼ぶのは無理があると思った。

 これまでは両極端な主張に対する反論で、以下が『憲法と子どもに対する教育権能』に関する最高裁の意見のまとめだろう。

 (三) 思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によつて大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。それ故、子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる。子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであつて、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的に示していないことは、上に述べたとおりである。そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張のよつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである。
 そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。

 結論は、憲法26条と13条は『子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではない』ということだが、その前に重要なことが述べられていて、それらを忘れてはいけない。

  • 子どもの教育は、専ら子どもの利益のために行われるべきである。
  • 何が子どもの利益であるかについて意見の対立が生じて当然。
  • 子どもの利益のために何が必要であるかについて意見の対立が生じて当然。
  • 何が子どもの利益でそのために何が必要かについて、憲法は一定の基準を明示的に示していない。
  • 親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由。
  • 私学教育における自由や教師の教授の自由は、限られた一定の範囲において肯定される。
  • 国は社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある。
  • 国は、子ども自身の利益の擁護のため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する。
  • 国は、子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する。
  • 教育は、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない。
  • 教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される。
  • 子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入は許されない。
  • 誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制することは許されない。

 これらはとても重要で、国や教師には、どんな教育も許されるんだ、と考えてほしくない。

 3 教基法一〇条の解釈

 次に、憲法における教育に対する国の権能及び親、教師等の教育の自由についての上記のような理解を背景として、教基法一〇条の規定をいかに解釈すべきかを検討する。

 これについては、余裕があったら次回に意見を述べたい。

追記:
 続きはこちら→【教基法一〇条の解釈】


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