不可能だから?可能なら?
『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義019』を読んで
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000143169
(上記URLのページはしばらくしたら「020号」に変わると思います)
次の部分(音声ブラウザで閲覧されることを想定して改行位置を変更しました)
三郎「なるほど。そのような冷静な体罰ができるのであれば、怒りの感情はないと言えよう。百歩譲ってそういうことができる人がいるとしよう。
しかし、そうすると、怒りにまかせた体罰と、理性的な体罰と、どのような基準で客観的に区別することができるのか、そのような区別は不可能ではないのか。客観的に区別が不可能である以上、やはり体罰は許されないと考える。怒りに任せた体罰をしておきながら、後でどうにでも言えるのだから。」
今回のメルマガは前回のメルマガの続きである。今回も面白い展開になった。残念ながらバックナンバーは削除されているが、前回のメルマガを読んだ私の感想は『どちらも選べない、選ばない』にある。「体罰の是非」の議論が始まった前々回のメルマガを読んだ私の感想は『是か非かではなく』にある。
前々回のメルマガで太郎君と次郎君との間で次のように「体罰」の定義が決まった。
■谷原「君たち、今議論している体罰というものを仮に定義してみよう。仮に私が定義してみるが、体罰とは、子供、ここでは仮に義務教育を受けるべき年齢としておくが、に躾をすることを目的として行われる人体に対する有形力の行使である。二人ともこの定義に賛成するか。」
太郎、次郎「それは賛成だ。」
そして太郎君は「どんな目的でも認めない」、次郎君は「躾という正当な目的だから認める」という立場で議論していた。そこへ今回のメルマガで三郎君が登場して次郎君が示した「体罰」の定義に『それは違う』と言う。躾目的は有り得ず『怒りの感情に支配されて弱い者に対して暴力をふるっているだけだ』という意見らしい。定義が異なればまともな議論にならない。三郎君が考えている「体罰」は前々回のメルマガで「体罰」ではなく「暴力」とされたものである。
■谷原「そうすると、体罰とは、躾をする目的で行われるものだ。躾を目的としない体罰は、体罰ではなく、太郎君の言う暴力と言って良いのではなかろうか。」
太郎、次郎「それも賛成だ。」
このように太郎君と次郎君との間で確認されていたのに、振り出しに戻ってしまったような感じである。このような展開はよくある。新しい人が議論に参加する度に定義の確認が必要になる。
メルマガでは次郎君が三郎君の心の中を推測して「体罰」の定義が異なることに気付き、三郎君が考えている「体罰」に自分も反対であることを告げ、自分が考えている「体罰」に対する意見を求める。その答えが冒頭に引用した部分である。
「怒りにまかせた体罰」と「理性的な体罰」との区別の話になっているが、前者は太郎君と次郎君が合意して定義した「体罰」とは異なる体罰だろう。前者も躾目的な場合があるだろうが、ここでは「暴力」と「体罰」との区別の問題と考えた方が良いかもしれない。定義によって両者が区別された上で、実際に起こったことがどちらであるか判別する方法の問題である。
「体罰」の定義に「目的」が含まれているから区別が難しくなる。「意図」という表現の方が良いかもしれない。他人の心の中は見ることはできない。相手の行為が定義通りの「体罰」であるかどうかどうやって判別したら良いのだろうか。三郎君の主張は「不可能」である。原理的には三郎君の主張の通りである。
裁判でも「意図」が争点になることがあるらしい。「殺意」が有ったとか無かったとか…。裁判官はちゃんとどちらかに決めている。裁判官の判断が絶対に正しいとは言えないが、どちらかに決めなければいけないのだから何とか判別しているのだろう。
さて、三郎君の「客観的な区別が不可能だから体罰は認めない」という主張には「客観的な区別が可能なら認める」という前提があるかもしれない。だから太郎君の「絶対に認めない」とは異なる。もちろん論理的には「客観的な区別が不可能だから体罰は認めない」と「客観的な区別が可能なら認める」とは異なるが、「客観的な区別が可能なら認めるのだな?」と突っ込まれやすい主張である。
三郎君の主張から私は「死刑の是非」の議論を連想した。死刑に反対する人の主な主張は「冤罪の可能性があるから死刑は認めない」である。これは「冤罪の可能性が無ければ死刑は認める」という前提があるだろう。実際は冤罪の確率を0%にすることはできないので死刑は永久に認めないことになる。冤罪の可能性があるのは死刑の場合に限らないが、「冤罪の可能性があるから刑罰は認めない」と主張する人は稀だろう。刑罰には反対せずに死刑に反対するのは人の生命をそれだけ重視しているからである。ちなみに私は別の理由で死刑に反対している。
三郎君の主張から私は「心神喪失者等医療監察法」の議論も連想した。この法律が法案だった時、反対する人の主な主張は「再犯(法的には犯罪ではないらしいので別の表現が使われている)の可能性を確実に判断することは不可能だから認めない」だった。再犯の可能性が無いのに隔離され続ける人が表れるかもしれないので反対していたのである。結局「再犯の可能性」を判断しない建前で法律が成立したが、法案に反対していた人たちの主張には「再犯の可能性が確実に判断できれば認める」という前提があるのだろうか。実際は別の理由を加えて反対しているのだが、「確実に判断できれば認めるのだな?」という突っ込みに「いいえ」と答えにくい反対理由である。ちなみに私は彼らとは異なる理由で心神喪失者等医療監察法に反対している。
メルマガ中の議論のサンプルが面白かったので、メルマガの主旨から離れてしまった。(^_^;)
メルマガの主旨は次の部分だろう。
議論は、お互いが異なる主張をし、それぞれが自分の主張を正当化すべく理由付けをし、または相手の主張及び理由の不備を攻撃するものです。したがって、自分の立場に固執するのが通常です。
しかし、時に自分の立場を捨て、相手の世界に入ってゆくことも必要です。それにより、議論の食い違いの原因が明確になり、議論を整理することができます。
その通りである。
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