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共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

躾けられる子の意見は?

『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義020』を読んで
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000143169
(上記URLのページはしばらくしたら「021号」に変わると思います)
次の部分(音声ブラウザで閲覧されることを想定して改行位置を変更しました)

そこで、次郎君は、三郎君の考え方を自分の考えに取り入れ、次のように新たな見解を主張しました。

「三郎君の意見を聞いて、私は意見を次のように変更したい。原則として、子供に対し、身体に有形力を行使することは許されない。ただし、例外的に許される場合がある。

許される場合の要件は、第一に、体罰を与える前に言って聞かせ、それにもかかわらず悪さをした場合でなければならない。第二に、主観的にも躾を目的として行われている場合でなければならない。第三に、躾を達する目的と、体罰の重さがバランスの取れたものでなければならない。そして、これら三つの要件は、例外的な要件であるから、体罰を行った者が立証しなければならない。

このように考えることで、三郎君が危惧するような怒りにまかせて暴力をふるう場合を排除することができる。なぜなら、怒りにまかせて暴力をふるう場合は、話して聞かせる精神的余裕はなく、また話しているうちに当初の怒りが収まるはずであるから第一の要件を満たさないし、怒りの場合には、躾目的と体罰の重さのバランスも考えられないから、第三の要件でも引っかかるのではなかろうか。」

三郎「うーむ。それは検討に値する・・・。しかし、それでも不十分な気がする。むにゃむにゃ・・・」

 今回のメルマガは前回のメルマガの続きである。「体罰の是非」を議論のサンプルにするのは前回で終わりだと思ったが、続いていた。バックナンバーは削除されているが、前回のメルマガを読んだ私の感想は『不可能だから?可能なら?』にある。前々回のメルマガを読んだ私の感想は『どちらも選べない、選ばない』にある。その前の「体罰の是非」の議論が始まったメルマガを読んだ私の感想は『是か非かではなく』にある。
 ただ、今回のメルマガを読むだけも良いだろう。この記事では取り上げないが、とても重要なことが述べられている。メルマガを読んでほしい。

 さて、上記の引用部分だが、次郎君が意見を変更するに至った経緯はメルマガを読んでもらうとして…、三郎君はまだ納得できないようである。きっと例外的に許される場合の要件をどうするかで議論が始まるのだろう。一番のポイントは第一の要件で「何度まで言って聞かせるか」ということだろう。次郎君の提案は「1回」のようであるが「仏の顔も三度まで」という諺(本来の意味は仏に対する無礼の場合の話らしい)もあるし、キリスト教だと「七度を七十倍するまで」(マタイによる福音書18章22節、和解について)というイエスの言葉もある。いろいろな意見があるだろう。

 メルマガの主旨から離れるが「体罰」に関する私の意見を述べたい。実は前回のメルマガの感想を書いた際に述べる予定だったが忘れていた。だから、今回述べたい。
 実は私も「例外があって良い」と思っている。ただ、例外の要件が次郎君と少し違う。第二、第三の要件は難しく書かれているが、要するに「本当に躾目的じゃないとダメ(嘘をつくな)」、「やりすぎは良くない」ということだろう。それに異論はない。私が次郎君と異なるのは第一の要件である。先に述べたような「何度まで言って聞かせるか」に関する意見ではない。「体罰が必要な行為をしたときに体罰が必要」という意見である。意味不明かもしれない。要するに「枠」を設けて、その「枠」を越えたときに体罰が必要と考えている。枠内ではどんな行為をしても体罰はせずに言って聞かせる。言って聞かせる必要のない行為もあるだろうから、枠は二重三重になっているかも知れない。とにかく、絶対に越えてはいけない枠を越えたときに体罰が必要、と考えている。裁判における「量刑」の話に近いだろうか。「体罰」は「極刑」に相当する。この「枠」の設定が人それぞれだろうから、いろいろと議論すれば良い。所謂「校則」は非常に狭い「枠」である。「体罰」は許されていないが無意味な校則がたくさんあるらしい。お釈迦様の手の平は非常に広い「枠」である。お釈迦様は体罰をしないと思うが、というか「枠」を越えられる人はいないと思うが…。
 この「枠」は「父性」と言われているものだろう。普段は「まあ、いいじゃないか」と許しまくっているが、いざと言うときにガツンと叱る。昔の父親の理想像はそんなものだったような気がする。普段は優しい父親があの時はとても怖い顔で怒ったとか、泣きながら怒ったとか、そんな話をよく聞いたような気がする。私の意見はそれに近い。そのような「枠」を設けて叱る場合は「体罰」でなくても効果があるかもしれないが…。

 実は、もう一つ違う意見がある。「体罰を求めている子に対しての体罰だけは認める」という意見である。「本当に体罰を求めていたのか?」が議論のネタになるだろうが、それは置いておいて、要するに「体罰を行う側の意見ではなく、体罰をされる側の意見を尊重しましょう」ということである。昔は体罰には反対だったのだが、体罰を求めている子がいるような気がしてから意見が変わったのである。
 十代の少年少女の討論番組で「暴力の是非」が議論されたことがある。NHK教育の「真剣10代しゃべり場」という番組である。「第1期メンバー」の議論の時だった。サイトを調べたら、2000年5月13日放送の「ケンカに暴力を使っちゃダメですか?」というテーマだったらしい。翌週の「命の重さって何ですか?」というテーマは、ちょうど「十七歳」が話題になった頃で、偶然だったと思うが非常にタイムリーな番組として高く評価された。その「ケンカに…」の提案者が「暴力」賛成派で「殴り合わないと分からないことがある」か「殴らないと分からないことがある」という意見だったように思う。当然「暴力」反対派から反論されたのだが、議論は平行線のまま終わったと思う。結論が出ないのがこの番組の特徴である。興味深いのは後日談である。「暴力」反対派で最も「言葉」と「理屈」を重視していた非常に頭の良い少年が後に「暴力」賛成派の少年に話す。「やっぱり拳を使わないと分からないことってあるんだねぇ」というような内容だったと思う。少年の拳には包帯が巻かれていた。「暴力」反対派の少年が例外的に「暴力」を認めたのである。思春期はそういう時期だろう。いろいろと試してみて理解するのが思春期の特徴だろう。
 少年たちのケンカに使われる「暴力」と大人が子に対して行う「体罰」は異なる。しかし「身体的な痛みを感じることで理解する」という点では一致しているかも知れない。「しゃべり場」の議論の最中に「体罰」の話があったかどうかは覚えていない。しかし、「暴力」賛成派の少年は体罰を求めていたのではないだろうか。そして、谷原さんのメルマガに登場する次郎君も体罰を求めているのではないだろうか。そのような子に対しては体罰が許されるような気がする。もちろん、体罰を求められても与えずに言葉で満足させられるのが一番良いのだが…。

追記(2005/8/30):
 他人のブログに体罰に関して次のようにコメントをしたので、それを追記しておく。

正己 『体罰に関しての意見を私のブログで書いたことがあるので、トラックバックします。
私のブログでは書かなかったのですが、「終わり良ければ全て良し」と結果で判断するしかないような気がすることがあります。マニュアルのように単一の手段を使うのではなく、相手に応じて良さそうな結果が得られそうな手段を選ぶ。ほとんど勘です。良い結果が得られなかったら、それは能力不足で修行が必要。最悪の結果になったら、責任を感じるくらいの覚悟が必要。そんな風に思うこともあります。』 (2005/08/29 17:43)
(「http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050827/p1」内コメント)

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カテゴリー:メルマガを読んで
共通テーマ:学問

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