ルールに優先順位あり
『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義024』を読んで
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000143169
(上記URLのページはしばらくしたら「025号」に変わると思います)
次の部分(音声ブラウザで閲覧されることを想定して改行位置を変更しました)
■イエス・キリストの話です。議論のメルマガにする必要上、多少創作しています。
イエスは、安息日に会堂に行ったところ、そこに片手のなえた人がいました。イエスは、その人を癒そうとしました。
すると、パリサイ人たちは、「安息日に人を癒しても律法違反にならないのか。」とイエスを責めました。
律法では、安息日には、完全に休まなければならない決まりになっています。この律法に違反すると、厳罰に処せられるからです。
(中略)
■ところが、イエスは次のように言います。
「あなたがたに聞きたい。一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ち込んだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。
人間は、羊よりもはるかに優れて尊いものではないだろうか。だから、人間を救うことは、羊を救うことよりもより善い行いと言えないだろうか。
したがって、安息日に人間を救うことは善い行いをすることであって許されるのではないだろうか。」
(弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義024)
これは新約聖書マタイによる福音書12章9節からの話である。
ここで使われたイエスのテクニックを谷原さんは次のように説明している。
■アリストテレスは「弁論術」という書物の中で、どちらも利益があるもののうちでも、どちらがより大きな利益をもたらすか、という議論をしています。
より大きな利益をもたらす方がより善である、という考え方です。
(弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義024)
その通りだと思うが、この例としてマタイによる福音書12章9節からを使ったので、その後の解説の論理構成がちょっと複雑になってしまっている。実は、同じ譬えがマルコによる福音書3章1節からとルカによる福音書6章6節からにもある。実はそちらの方がシンプルである。ただし、そちらではパリサイ人たちは議論を吹っ掛けず、イエスの法律(律法)違反をじっと待っているだけである。ルカによる福音書の方から引用するとイエスの反論(パリサイ人たちの目論見を察しての反論)は次の通りである。
「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
(ルカによる福音書6章9節より)
要するに「常に悪ではなく善を行い、人を死なせず救いなさい」という「命令」が優先され、「安息日になえた手を癒してはいけない」という律法(解釈)はその優先される「命令」に違反するから「無効」というわけである。「なえた手を癒さないのは悪ではない」とか「なえた手を癒さなくても死なない」とかいう反論は本質から外れるので無視する。イエスの反論は「日本国憲法に違反する法律・命令は無効である」と同じ構図だろう。イエスが用いた「優先される命令」は律法と異なり文章になっているわけではなく、誰もが心の中で「当たり前」と思っていることに過ぎないので、裁判では使えず負けるだろうが…。
とにかく、ルールがあったら、より優先すべきルールがないか考えることが大切だろう。ただルールに従うだけだと、より優先すべきルールを破っているかもしれないので気をつける必要がある。
せっかくだから、以下に新約聖書の言葉を引用しておく。「続きを読む」とあったらクリックして頂きたい。
マタイによる福音書12章9〜14節
イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
マルコによる福音書3章1〜6節
イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。
ルカによる福音書6章6〜11節
別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。
もう一つ、法律を考える時に重要だと思われることがすぐ前に書いてあったので引用する。
マルコによる福音書2章27〜28節
また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」
法律は人間のために設けられたのである。人間が法律のために造られたのではない。国民のために法律があるのであって、法律のために国民がいるのではない。そのことは忘れてはいけない。
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