循環論法に注意
『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義 2005.7.13-031号』を読んで
http://blog.mag2.com/m/log/0000143169
(上記URLのページはしばらくしたら「032号」に変わると思います)
次の部分(音声ブラウザで閲覧されることを想定して改行位置を変更しました)
公彦「神は存在する。」
誠「なぜ?」
公彦「それは聖書に書いてあるからだ。」
誠「なぜ聖書に書いてあると信用できるの?」
公彦「聖書は神が作ったものだから信用できるのだ。」
誠「なるほどー。」L(・o・)」
この議論の手法を「循環論法」といいます。
(中略)
この議論を批判するときは、「循環論法だよ。なぜなら〜のように、結論と理由がぐるぐる循環しているだけだからだ。」と説明すれば良いだけです。
(『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義 2005.7.13-031号』)
「神が作った聖書に書いてあるから神は存在するんだ…」と頷いてあげます。(^_^)
気づける人は気づくけれど気づかない人が多いんだろうなぁ。(^_^;)
メルマガの例は単純だから循環論法にすぐに気づけるけれど、大きな円を描いて元に戻るときには気づきにくい。注意したい。
ちょっと「神が作った聖書に書いてあるから神は存在する」の真偽を考えてみる。メルマガの例では「信用できる」というクッションを置いているから「神が作った聖書に書いてあるから神は存在する」とは少し違う。「信用できる」ということを抜いて「神が作った聖書に書いてあるから神が存在する」という言葉だけを見ると正しいように思えてしまう。(^_^;)
「神が存在しなければ聖書は存在しない」が「真」だと、「聖書が存在するならば神は存在する」が「真」になる。そこで「神が存在しなければ聖書は存在しない」の真偽であるが、聖書は神が作るものだろうから「神が存在しなければ聖書は存在しない」は「真」である。だから「聖書が存在するならば神は存在する」ということになる。そして「聖書」は存在する。だから「神は存在する」ということになる。と、騙されないでほしい。「(神が作った)聖書が存在する」は証明されていない。
メルマガの例から「聖書に書いている」を省いて考えてみた。「Aさんが存在しなければAさんの自叙伝は存在しない。Aさんの自叙伝が存在するからAさんは存在する」と同じようなものである。ここで「自叙伝」がAさんの自叙伝でなければ「自叙伝」が存在しても「Aさんは存在する」ということにならない。
さて、「自叙伝」がAさんの自叙伝であるとして、そこに「私は男だ」と書いてあったとする。すると普通は「Aさんは男だ」と考えるだろう。「嘘をつくわけがない」という思い込みがあるからである。「私(A)は存在する」と書いてあったらどうだろうか。Aさんの自叙伝なのだから嘘であるわけがない。Aさんは存在する。Aさんの自叙伝に「私は存在する」と書いてあるのは新しい情報がないので、書いてあろうとなかろうとAさんは存在する。
ここで、「神が作った聖書に書いてあるから神は存在する」に戻る。神は聖書に嘘を書かないだろうから聖書に「神は存在する」と書いてあったら神は存在する。だが、「神は存在する」と聖書に書いてあろうとなかろうと神が作った聖書が存在するのなら神は存在することになるのである。
このように理屈っぽく長々と語られると「なるほど、神は存在するんだ」と思ってしまうかもしれない。しかし「Aさんの自叙伝」とされているものがAさんの自叙伝でなければ「自叙伝」が存在してもAさんが存在するとは言えないように、所謂「聖書」が「神が作った聖書」でなければ神が存在するとは言えない。所謂「聖書」が「神が作った聖書」だから信用できるのであれば、「神が作った聖書」でなければ信用できるとは言えない。所謂「聖書」が神が作ったものであるかどうかの議論が必要である。
でも、この件(神が存在するかどうか)に関しては議論しないのが賢い選択だろう。
話が逸れてしまったような気がする。(^_^;)
循環論法を「循環論法だよ」と指摘する以外に反論する方法はないだろうか。昔勉強したような気がするが忘れてしまった。気が向いたら考えてみたい。
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