「毎日かあさん」論争:抗議の仕方
『「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か』(読売新聞、2005/8/31)を読んで
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050831-00000106-yom-soci
次の部分
西原さんの長男(8)が通う同市立小学校が、西原さんに「学校を作品の舞台にしないでほしい」と申し入れたためだ。
(中略)
問題となったのは、授業参観の場面。主人公の母親が、落ち着きのないわが子を含む児童5人を「クラスの五大バカ」と表現し、ユーモアを交えつつ、子どもの成長を見守る内容だ。
この場面が紙面に載った直後の昨年11月、長男の担任の女性教諭(40)が西原さんを学校に呼び出し、「迷惑している」「学校を描かないでほしい」と注文をつけた。
西原さんは翌12月、毎日新聞社の担当者と同小学校に出向き、校長らに「保護者だからといって、編集者を通さず作者を直接呼びつけるのは非常識だ」と抗議。校長らは「学校に落ち度はない」と主張したという。
(中略)
一方、同市教育委員会の南條和行・教育部長は「保護者を学校に呼ぶことは珍しくない。(中略)」と話している。
谷原誠さんのメルマガ『弁護士がこっそり教える絶対に負けない議論の奥義 2005.9.2-037号』を読んでこの事件を知った。表現の自由か教育的配慮かは当事者同士で決着しなければ裁判で決着をつければいいと思うけれど、どちらかに損害が生じていなければ裁判にもならないだろう。この事件、担任や学校や他の保護者と西原さんの仲を詳しく調査してみたら週刊誌ネタとして面白いのかもしれない。保護者の中に西原さんの味方がいなかったら「いじめ」の構図かもしれない。また、西原さんと女性教諭が共に40歳なのも興味深い。
さて、谷原誠さんのメルマガでは、この事件をサンプルにして、議論の際に自分に都合の良いように対象をグルーピングする手法が紹介されていた。西原さんは「保護者」であると同時に「作家」であり、西原さんが「作家」である自分に対する学校の態度を批判しているのに対し、学校側は西原さんを「保護者」と見なして言い訳している。その手法の話である。メルマガは紹介だけで終わっている。
「保護者」を直接学校に呼ぶことは問題ない。しかし「作家」を編集者を通さずに学校に呼ぶのは失礼だろう。西原さんは「保護者」であり「作家」でもある。西原さんを編集者を通さずに学校に呼んだことに問題があるかどうか。
学校側の抗議は西原さんの「保護者」として行動ではなく「作家」としての行動に対する抗議である。そう考えると西原さんを編集者を通さずに学校に呼んだのは問題があるように思われる。もしも西原さんが「保護者」でなかったら担任は編集者を通さずに学校に呼んだろうか。呼ばないだろう。西原さんの主張通り、『保護者だからといって、編集者を通さず作者を直接呼びつけるのは非常識』であるように思われる。
似た構図の出来事が他にもないか考えてみた。
歌手である友人とカラオケに行って自分の歌を歌ってもらう場合。弁護士である身内に弁護してもらう場合。美容師である友人に散髪してもらう場合。知人が店長の喫茶店に行ってコーヒーを飲む場合。「毎日かあさん」のケースは料金が絡んでいるわけではないが、似ているような気がする。
そうそう、我が家は農家である親戚から米を買っていた。貰っていたわけではない。
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