福祉を財政の観点から考えると…
『+ 駝 鳥 + - ナチスドイツの障害者抹殺計画は財政論的に根拠付けられていた〜なぜ国家によって人は抹殺されうるのか』を読んで
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050910/p1
次の部分
「お金がないから福祉に予算を割けないのだ」という不作為と、「お金がないからお荷物を排除するのだ」という作為の間には、実は、暗闇のなかで手を結んでいる一面がある。
そんな気がする。障害者を「お荷物」と考えている人はいるだろう。批判されるのが嫌だから『排除するのだ』とまでは主張しないだろうが、『予算を割けない』は主張しやすいから多用されているような気がする。
ここで、”人類普遍の原理たる個人の尊重の原理”を思い出しさえすればいいのだ、この真理こそが国家主義に対するカウンターである、と主張することは簡単である。昨年の5月頃、私もそのように書いた。
しかし、たとえ組織体が質を落とし最悪の場合、破綻しようとも、それでも個人の自律性の実現こそが大切なのだ、とまで多くの国民が言い切れる社会は極めて少ないだろう。プロテスタント的な意味での、神との個人的な契約が全く意識されない日本社会ではとくにそうだ。
先日(9日)NHK教育の「真剣10代しゃべり場」という番組で、主題から少し離れて「フリーター」が話題になった。政府や国会議員やマスコミと同じようにフリーターの増加を問題視する意見があったように思う。何が問題か。経済的な観点から日本にとって害になるらしい。彼らが食えなくなったら誰が面倒を見るのか、という感じの批判だったように思う。「迷惑だ」「邪魔だ」という思いがひしひしと伝わってきた。ニートの問題も同じだが、政府や国会議員やマスコミが問題にすればするほど、彼らは「迷惑だ」「邪魔だ」というメッセージを感じ取っているかもしれない。そうそう、「ひきこもり」問題も同じメッセージが発信されている。「ホームレス」問題ではさらに強く…。
もしかしたら、小学生もそんな雰囲気を感じ取っているかもしれない。自分の将来を想像して「自分はダメだ」と思い、「社会にとって迷惑だ」と思い、「自分は生きていない方が社会のためだ」と思い……、そして……。
障害者問題から離れてしまった。
引用した記事に『私たちは、誰が生きるに値しないか、という問題をダイレクトに論じることを避けてきた』と書いてあるが、確かに避けているように思われる。みんな、避けた状態でいろいろな問題を議論している。私が意見を言うときは「全ての人は生きていて良い」が大前提になっている。理由はない。もっと若かった頃、いろいろと考えてそう思った。願望のようなものかもしれない。その大前提の下では「〜は死ぬべき」という結論は出ない。
言いたいことを書いていると福祉の話に戻りそうにない。
とにかく、引用させてもらった記事はお勧めの記事である。福祉を財政の観点から考えることの怖さが指摘されているように思われる。
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