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共謀罪を含む改悪組織犯罪処罰法は
【「共謀罪」法 衆参両院議員の投票行動(東京新聞 2017/6/16)】

人の命が大切なら

『*死の変貌 デスについてのノート』( EP: end-point 科学に佇む心と身体Pt.2)を読んで
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-430.html
次の部分

 死がまた変わったらしい。
 「人を一人殺しただけでは死刑にならず、複数の人間を殺さないと死刑にならないのはオカシイ、命一つと命一つの等価交換であるべきだ」
 そんな物言いが普通にメディアから流れてくる。
 行為と命が、同じレベルで扱える、ということらしい。

 ちょい昔は、行為と命はべつもんだった。
 だからこそ、死刑に対するタブー感もあり。
 ミームという概念が世に蔓延するよりちょい前の時代、「人の行い」と「命」は別レベルのもんだった。
 「どんなに悪いことをした人間でも、命は大事だ」。
 その感覚がなくなる、いや特定の世代を中心に、ない、ことがあるらしい。

 ミームという概念は勉強不足で分からないが、私の中に「どんなに悪いことをした人間でも、命は大事だ」という感覚はあった。今でも残っている。しかし言葉にはできなくなっていた。久しぶりに見て思い出したような気がする。

 私の心の中には「人を殺してはいけない」という規律が一番上にある。私の中のどんな規律もその規律に逆らうことができない。だから「死んだ方がいい人がいる」という思いはその規律に矛盾するので許されない。思いと行為は異なるので行為が伴わなければ矛盾しないかもしれないので、ちょっと変える。「他人が人を殺すことを許す」行為は「人を殺してはいけない」という規律に矛盾するので許されない。それでも自分が殺さなければいいのであって他人が殺すのを許すことは矛盾しないと考えることもできるので困るが、何となく許したくない。「他人が人を殺すことを許す」行為に罪悪感が生じる。だから死刑に反対している。最近は死刑に反対することが許されない雰囲気だが誰かが誰かを殺すのはやっぱり嫌なのである。
 なんで「人を殺してはいけない」と思うようになったかちょっと考えてみた。キリスト教の幼稚園に通って卒園後もしばらくは教会に通っていたことが影響しているのかもしれないが、別の原因がありそうな気がする。自分が殺されたくないという思いはあったような気がするが、よく思い出せない。とにかくいつのまにか「人を殺してはいけない」と思うようになっていた。そこからいつのまにか「どんなに悪いことをした人間でも、命は大事だ」思うようになっていたように思う。
 話が逸れてしまったが「どんなに悪いことをした人間でも、命は大事だ」という感覚は私の中にあったし、世の中にもあったような気がする。好きで幼い頃によく見ていた、そして水曜日18:55からの再放送も欠かさず見ているTBS「まんが日本昔ばなし」というアニメにもそんな雰囲気があったような気がする。悪いことをした人に対する厳しさもあったようで違うかもしれないが、よく覚えていない。「罪を悪んで(憎んで?)人を悪まず(憎まず?)」という言葉も耳に胼胝ができるくらい聞いたような気がする。関係あるかもしれない。諺を持ち出すと間違った解釈をしていて「〜を読め!バカ」とか言われそうだが、私は文字どおりに解釈して、それは良いことだなぁ、と思ったし、今でも思っている。命の大切さを表現する言葉がたくさんあるような気がするが、その「命」には悪いことをした人間の命も含まれていなければいけないだろうし、そうでなければ「命は大切だ」なんて言葉も軽くなる。正直に「大切な命もあれば大切でない命もある」と言えよと思ってしまう。言われた人が「私の命は大切でない。私は死んだ方がいいんだ」と思うかもしれないので、あるいは「あいつの命は大切ではない。だから殺していいんだ」と思うかもしれないので、正直には言えないだろうが…。
 話がまとまらないし内容の無い薄っぺらな文章になってしまったかもしれないが、とにかく、「どんなに悪いことをした人間でも、命は大事だ」という感覚は大切にしたいと思った。

追記(2006/7/6):
 tamaさんのコメントにコメントを返した後でもtamaさんのコメントの内容が気になった。

はじめまして。
自分が被害者の家族であったなら、出来うる限り重い刑、死刑を望むと思います。が、その望みが叶わない法で有って欲しいです。
by tama (2006-07-06 11:42)

 私は「実際にそうなったら死刑に反対している私もどうなるか分かりません。」と応えたのだが何か忘れているような気がした。そして、さっき、ふと思った。
 私は人殺しになるのが嫌なのかもしれない。
 私は自分の愛する人が殺されたら自分の心を今のように保てないだろう。たぶん加害者を殺したいと思うだろう。法律を守るくらいの理性は残っているだろうから、死刑制度があったら死刑を望むだろう。そして死刑に相当する罪ならば加害者は死刑になるだろう。すなわち私は間接的に加害者を殺すのである。その時になれば私は何とも思わないだろう。罪悪感はないだろう。自分は正当だと思うだろう。でも、今の私はそんな私になりたくないと思っている。加害者の死を望む私になるのは仕方ないとしても間接的に人を殺して満足する状態になりたくないと思っている。人殺しになりたくない。その望みを叶えるために死刑制度は邪魔なのかもしれない。

追記(2006/7/6):

 では、死刑制度がなくなって加害者の死を望んでも殺せなかった場合、私は何を求めるだろう? その時の私ではなく、今の私は何を求めるだろう? その時の私は加害者を殺したい。実際に自分の手で殺してしまうかもしれない。今の私はそんな私になるのを嫌がっている。その時の私に何が与えられれば良いのだろう。今の私は思う。その時の私の心を救ってほしいと思う。その時の私の心を今の私の心に戻してほしいと思う。戻すことはできないとしても憎しみに囚われている私を救ってほしいと思っている。その時になったらそんなことは思わないだろう。だから今のうちに書いておく。そしてその時には加害者が死ななくても私が救われる社会になっていることを願う。


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カテゴリー:ブログを読んで
共通テーマ:日記・雑感

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daikun_mm

はじめまして。
自分が被害者の家族であったなら、出来うる限り重い刑、死刑を望むと思います。が、その望みが叶わない法で有って欲しいです。
by daikun_mm (2006-07-06 11:42)

正己

tamaさん、コメントありがとうございます。
自分の家族が殺されたらと考えた場合は難しいですね。
実際にそうなったら死刑に反対している私もどうなるか分かりません。
by 正己 (2006-07-06 12:14)

amasaki

前回書き込めなかったコメントを再トライ。

「ミームについてはここにためてあります。
http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/ep_meme.html
簡単にいえば、授受される情報のことかな。
  身体がハードだとしたら、ミームは思考や記憶:ソフトウェアやデータ
  書籍がハードだとしたら、ミームは文面や図像

うちも幼稚園はキリストさんだったんですけどね。今は仏道のほうがしっくりする。」

と書き込めるかな?
by amasaki (2006-07-06 22:38)

正己

amasaki さん、コメントありがとうございました。
前回はコメントを拒否してしまって申し訳ありませんでした。
禁止キーワードを外したらさっそくスパムが届いたようです。(^_^;)
そういうわけで、また禁止キーワードを入れることにします。
またコメントを拒否されたらお許しください。
本題ですが、ミームの情報、ありがとうございました。なんとなく分かるような分からないようなという感じですが、少しずつ理解していきます。
by 正己 (2006-07-06 22:46)

amasaki

どこもスパム対策でややこしいことになっているみたいですね。('_';
タグも何もなく、上のカギかっこ内のまんまの内容で、前回拒否られました。
なぞだ…。

ついでに。よく思うこと。
交通事故で死んだら、癌で死んだら、雷で死んだら。
それと殺人とで、どうして復讐心の度合いが異なってくるのか。
進化心理学的にはチーター(ふとどきもの)過敏検出機能が発動してしまうゆえだろうと。
自分側の論理にいないもの、自分側の論理を蹂躙するものを虐殺したがるという、殺人犯側とよく似た機序。
ミイラ取りがミイラ。
by amasaki (2006-07-06 22:55)

正己

amasakiさん、すみません。拒否単語を見つけました。「homepage」でした。これは拒否してはいけませんね。(^_^;)
殺人以外の死との復讐心の度合いの違い、興味深いです。復讐の相手がいるのかいないのかも関係ありそうな気がしました。
by 正己 (2006-07-06 23:14)

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