障害者が望む「自立」とは
『くまもと・福祉の今:障害者の自立とは!? /熊本』(毎日新聞、2005/8/5)を読んで
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050805-00000313-mailo-l43
少し古くなってしまったが、良いことが書いてあると思うので紹介する。
そもそも障害者が望む「自立」とはどういう姿なのか。障害者自らが自立生活の実現に取り組む熊本市のNPO「ヒューマンネットワーク熊本」のメンバーに話を聞いた。
障害者が望む「自立」と障害者を自立させようと思っている人達の「自立」は異なることが多い。どちらの「自立」を目指して政策を作るべきか。やはり前者だろう。障害者が望む「自立」を目指すべきだろう。後者では障害者に自立させようとしている人達に都合の良い政策になりやすく、障害者にとって「害」になる可能性がある。もちろん、障害者が望む「自立」と障害者を自立させようと思っている人達の「自立」が一致していれば問題は少なく、「自立」のための方法を議論すれば良い。
人手を借りないことが自立ではない。自分の生き方を自分で決め、できないところは介助制度を使って生活を組み立てることも自立です。
私たちのいう自立は「管理からの独立」。
頷ける。「依存しながらの自立」である。依存しやすい環境があり、上手に依存できた方が自立しやすい。そもそも全ての人は他人に依存している。障害者はその依存内容が所謂健常者と異なるだけである。所謂健常者が依存していることは障害者も依存することができるが、所謂健常者が依存する必要がないことも障害者は依存する必要がある。その経済的負担を誰が担うかが議論になっている。
『管理からの独立』という言葉は分かりやすい。障害者は依存方法を自分で決めることが許されず管理され続けてきた。障害者たちが声をあげたことで少しずつ改善されてきたが、いまだに管理され続けている障害者が多いだろう。「自立」とは、所謂健常者も障害者も、依存方法を自分で決めることである。
差別というのは二つあって、障害があるからここに入ってはだめというような場合が一つ。二つ目が分かりにくいが、障害があることで特異なニーズが発生しているのに、ケアを保障せずほっとしている状態。重度の障害者は普通の小学校に入学させないというのも差別だが、入ってきて下さいといいながら教室が3階にあるというのも差別。障害者が普通に生きられる環境整備をしないままに、したということで制度をつくり負担を発生させていいのか。ある人は自立支援法は「無実の罪で収監されている人に保釈金を払えと言っているようなもの」といっている。無実というのは障害があることに責任はないという意味です。
一つ目の差別は目立つのですぐに分かる。二つ目の差別は気づきにくい。『障害者が普通に生きられる環境整備をしないまま』とあるが、それが差別なのである。今の世の中は所謂健常者に都合の良いように作られてしまい、障害者が暮らしにくくなってしまった。そのことが既に差別なのだが、そのことを知った後でも障害者にも暮らしやすいように環境を変えなければ、それは差別だろう。環境が整わないから障害者が自立しにくくなっている。障害者の自立のためには、障害者が思いのままに生きられる環境を整える必要がある。
最近は耳にすることが少なくなったが、「ノーマライゼーション」とは障害者が障害者には暮らしにくい社会に合わせて変わることではなく、皆が障害者には暮らしにくい社会を障害者にも暮らしやすい社会に変えることである。障害者にとっての「障害」は障害者自身にあるのではなく社会の側にある。障害物競争の「障害」と同じように、障害者が進もうとする道に置かれている。その障害を取り除くことがノーマライゼーションであり、障害者の自立に繋がる。
以下は障害者自立支援法案に関するこれまでの私のブログ内の記事
【「限られた財源」強調の厚労相】
【働いたらお金が減る人たち】
【応益負担で前向き?】
【財務省様の仰せの通りに?】
【やっと与党とのパイプができた?】
【障害者自立支援法案:可決】
【障害者自立支援法案:委員名簿】
【障害者自立支援法案:八代議員】
【応益負担の理念図】
【障害者自立支援法案:脅し?】
【障害者自立支援法案:強行採決?】
【障害者自立支援法案:与党修正案】
【厚生労働委員会の様子】
【32条は大切2】
【応益負担に賛成なのね?】
【朝日新聞と厚労省】
【32条は大切】
【その公平は本当に公平?】
【「自立」とは自分で決めること】
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